恩師登場 故村上正治先生
村上先生は1963年から12年間、音楽教師として市川二中に在職されていました。
先生は、1914年、新潟県岩船郡村上町に生まれ、東京高等音楽学院予科(現在の国立音楽大学)を卒業後、市川に移り、小学校などの教壇に立っていましたが、戦後になって、日本に平和国家が誕生すると、これからの若い人たちの教育に必要なのは音楽と考え、クラシック音楽の啓蒙に乗り出していきました。 彫刻家の藤野天光の積極的な応援も得て、先生は、厳本真里、中山悌一など、当時一流の音楽家を招いては演奏会を開きました。レコードコンサートも毎月のように行われていたといいます。
ここから多くの演奏家が生まれ、やがて 市川交響楽団の結成へと進んでいきました。また、声楽を愛する人々が集い合唱団も誕生し、先生のまいた<一粒の麦>は、着実に育ち、いまや日本各地に芸術文化団体の結成を見るという大きなうねりとなって広がっています。こうした努力に、1987年に勲四等瑞宝章を受章し、1992年には市川市から第1回市民栄誉賞も贈られました。
【“偉大なるパーさん”、村上正治先生を偲んで・・・桑村益夫】
同窓会初代会長桑村益夫さん(1期)は、村上先生について次のように話されました。
「私が両国高校に進学し、トランペットと運命的に出会った翌年の秋、村上先生の突然の訪問を受け、オーケストラへの参加を要請されました。経験が浅かったので、一度はお断りしましたが、昭和25年の市川交響楽団(市響)の第1回演奏会に出演させられました。それ以来、私は市響の団員として、また、関連団体の役員として一貫して活動して参りました。
村上先生は、音程に大変厳しく、ご自分のイメージに合わないと「パー、パー・・・」と何度も声を張り上げられたので、皆さんから親しみを込めながら、「パーさん」というあだ名が献上されるなど、親しみやすい方でした。
日本が戦後の荒廃から立ち上がり、潤いある社会を取り戻すには音楽が欠かせないとの信念のもと、先生は著名な音楽家を招いての音楽会やレコード鑑賞会を開催し、全国でも珍しかったアマチュアオーケストラを立ち上げました。当初は人数も少なく、経験の浅いオーケストラでしたからプロ演奏家の協力が欠かせませんでしたが、先生の熱心な呼びかけに応えてくださった井口基成さんなど著名な音楽家との共演は貴重な体験でした。
オーケストラに接することの少なかった昭和20~40年代には千葉県の各地にコンサートで巡回しました。先生は全国のアマチュアオーケストラの発展にも尽力され、昭和56年には全日本文化団体連合会会長に就任されました。
先生は一貫して音楽を通して文化の香り高い、豊かな社会の建設に貢献されてきましたが、その根底にはキリスト教信者としてのゆるぎない信仰心があったと推察しています。音楽は趣味の満足に留まってはならない、奉仕の精神が大切と説いておられました。そして、その精神に基づき、市響協会の演奏会は昭和22年以来、特別な場合を除き無料で開催しています。それを支えて下さっているのが、会員や市当局、地元企業の支援です。
平成25年7月6日の「村上正治生誕100年記念コンサート」は、千葉県各地のオーケストラからも演奏への参加者があり、私も一緒に演奏しましたが、先生も建設に参画された市川市文化会館はほぼ満席の盛況となりました。
私は60数年前、先生にお誘いを受けて以来トランペットを吹き続けてこられたことに深く感謝しております。」
【村上先生のプロフィール】
1914年(大正3年) | 新潟県岩船郡村上町に生まれる |
1939年(昭和14年) | 東京高等音楽院予科(現国立音楽大学)作曲部卒業 |
1945年(昭和20年) | 市川文化会結成 |
1951年(昭和26年) | 市川交響楽団結成 |
1953年(昭和28年) | 千葉県吹奏楽連盟結成 |
1963年(昭和38年) | 音楽教師として12年間市川二中に在職 |
1969年(昭和44年) | 千葉県芸術文化団体協議会結成 |
1972年(昭和47年) | 全日本文化団体連合会結成 |
1974年(昭和49年) | 市川市芸術文化団体協議会結成 |
1977年(昭和52年) | 千葉県知事文化功労賞受賞 |
1978年(昭和53年) | 文化庁長官文化功労賞受賞 |
1981年(昭和56年) | 全日本文化団体連合会会長 |
| 全日本アマチュアオーケストラ連盟理事長 |
1987年(昭和62年) | 勲四等瑞宝章受章 |
1992年(平成4年) | 第1回市川市民栄誉賞を受賞 |
2001年(平成13年) | 第5回市川市民文化賞受賞 |
2003年(平成15年) | 逝去88歳 |