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吹奏楽部の交流サイト

皆さんこんにちは。
このサイトでは吹奏楽部の皆さんの交流を応援します。

二中吹奏楽部は1960年の二学期に誕生しました。 最初の顧問の先生は川和田千鶴子先生です。 先生は音楽専攻で同年に二中へ赴任しすぐに吹奏楽部を結成したという事です。 最初は9個の楽器を買い入れたそうです。

1963年には市川市の小中学校音楽コンクールで行進曲「美中の美」を演奏したとの情報があります。
1965年入部の方は、「すでに30人くらいの部員がいて楽器もそろっていた」と言っています。
1965年に入部した方によるとその後4年間は部活動があったとの証言を得ていますが、
1969年以降1974年までの5年間は空白となっています。
(情報をお持ちの方はぜひお知らせください)

1975年に村上正治先生が吹奏楽部の活動をを再開されました。
再開初期の頃は部員はいても楽器が不足していた様で、このため古い楽器の緑青落としやコンクール前日に楽器が盗難にあうなどの苦労話があります。

1979年頃になると、楽器もそろいパートも拡がって他に遜色ないクラブに成長しました。 そして千葉県の吹奏楽コンクールにも出場するようになり、1980年には千葉県吹奏楽コンクール第一部の特別優勝を受賞するまでになりました。

クラブ活動の歴史と時々の思い出の寄稿などを
資料のある範囲で記録しましたのでご覧ください

1960年昭和35年 吹奏楽部誕生 初代顧問:川和田千鶴子先生
1963年昭和38年 市川公民館で市内小中学校音楽コンクールに出場

●村上正治 先生(部活再開後の初代顧問)1963年~1975年 二中在職  
1966年 昭和41年4月の生徒会誌「すわだ創刊号」によると、「音楽クラブ」との記載はあります。
この時期には「吹奏楽部」という名称ではなかったのでしょうか?
1973年 「昭和48年度学校要覧」によると「ブラスバンドクラブ」が活動している事になっています。
1973年 昭和48年3月発行の生徒会誌「すわだ8号」では「ブラスバンド部の活動停滞」が報じられています。(当時の記憶にもとづく状況と一致しております)
1975年 昭和50年に吹奏楽部が創設されたという事です。(再調査が必要です)
村上正治先生を偲んで    1期 桑村益夫さん
先生は私が卒業して後、二中に着任され12年間も在職されました。
先生は教師としては大変厳しい方だったようですが、・・・ 戦後の荒廃から立ち上がるには音楽により、平和な社会を取り戻すことが大切との固い信念のもとに、終戦の翌年から著名な音楽家を招いての音楽会やレコード観賞会を開催し、 ついに当時としては珍しかったアマチュアオーケストラを立ち上がられました。
 ―中略― 
私は60数年前、先生のお誘いによりオーケストラに参加して以来、現在までトランペットを吹き続けて来られたことに深く感謝すると共に、二中同窓生の皆様が改めて村上正治先生の偉業に想いを馳せてほしいと念願しております。

村上先生の思い出      16期 中山裕一郎さん
村上先生が音楽教師として二中に着任されたのが、東京オリンピック前年の昭和38年、私達が中学2年生に進級した年でした。 2学期になりいよいよ秋も深まったころ、先生は音楽の時間に生徒たちに向かいこういわれました。 「今度、市川市民会館でベートーヴェンの『第九』のコンサートがあり自分が指揮をするので、良かったら聴きに来るように」と。 照明に照らし出された弦楽器や金管楽器の輝くような美しさは中学生の私の心を強く捉えました。 そしてその中心には、情熱的にタクトを振る村上先生の後姿がありました。
 ー中略ー
高校の音楽教員を経て、現在は大学で教員を養成する仕事をしています。 自分のたどった道を振り返るとき、村上先生の存在の大きさに、いまさらながら驚いています。

(いずれも、「会報」17号「村上正治・生誕100周年に寄せて」記事より抜粋)

●斎藤 富作 先生(二代顧問)   鈴木 凱夫 先生(三代顧問)

上原ひさ子(宗石)先生(四代顧問)からのお便り
1977年、入学したての31期生10名ほどと共に二中吹奏楽部を立ち上げました。
緑青の生えた楽器を4階の音楽室に運び、磨き保管するための環境を整えることが当初の部活動でした。 へこみや傷のある楽器でしたが、それでも音を出せる状態にまで整えた時は、部員一同感動ものでした。 そんな状況から発足した吹奏楽部が、今日までたえることなく存続している事は何よりの幸せです。 当時八中在籍の忠地先生にもいろいろな相談に乗っていただき、お力を貸していただきました。 その忠地先生が二中を最後に退職されたことに、不思議な縁を感じます。 今後も二中吹奏楽部のますますのご発展を心からお祈りいたします。

(「会報」21号2018年発行「恩師からのおたより」より転載)
上原先生と共に活動した、31期・32期の同窓生からの感慨です
当時のティンパニーはまだペダル式でなく、ネジ回しで音を変えていました。シンバルを力いっぱい叩いたらオチョコになってしまったり・・・。 コンクールが近付くと黒板に色とりどりのチョークで『絶対特別優勝だ?』と書き、意気込んでいました。 何の時だったか覚えていませんが、菅野小からティンパニーを借りリヤカーで運んだことがありました。

初めて楽器が割り当てられた時、(私はボロボロのコルネットでした)面倒を見てくれていた平野先輩に『一緒に風呂に入るか、中性洗剤で洗って緑青を落としておいで』と言われ腰を抜かしそうになりました。 金管楽器は輝いているという『常識』が覆されました。 私はその後トロンボーンに配置換えになったので、また緑青落としからやり直しでした。 しかし、再生しても音の抜けは悪いままで、一年生の時のコンクール(剛毅の時ね)の本番時には袖に控えていた他の中学校からピカピカのトロンボーンを借りました。 本当の創世記の凄まじさを知らずに済み、一方で体制が整ってきちんとしすぎた部なら、先生とフレンドリーすぎる会話をすることもかなわず、 ひょっとするとレギュラーも獲れなかったかも知れなかった。
いま頭に浮かぶのは『青色の楽譜』『棺桶の様な楽器ケース』『音楽室の雑巾がけ』『朝練習での12音階スケール習得』『演奏会直前の盗難事件』など・・・、 物置を探せば過去の演奏会のパンフレットも見つかるかもしれません。

当時、楽譜をコピーする時は『自分で写譜すると細かなところまで一番よく覚える』と言い伝えがあって、せっせと手で写した覚えがあります。 柴田先輩が書かれたように青色の楽譜、当時のコピーは青紫のムラのある仕上がりでしたっけ。 最初に借りたクラリネットはチェコスロバキア製でした。おお、舶来ものだ!!と思いましたね。

初めてのコンサート前日の盗難事件、タンバリンを買いに松戸の伊藤楽器まで自転車で走りました。 一中の凄さに驚愕した事、でも二中の優しい音色が好きでした。肉のハナマサでのあれは何でしたっけ? 祝勝会か何か、その後市立博物館の所で夜にもかかわらずハンカチ落とししましたね。 でも、一番は先生の退職かな、3月末日のスプリングコンサートの練習の真っ只中、俺だけ先に知らされていたから、 中二の子供には複雑な気持ちの毎日でしたよ。

ホントにその通り、あのぶら下がり音程の『ペッパー警部』、記憶からは決して消えませ~ん。 そして、当時の市川市の小中学校がハイレベルだったので、他校のみなさんに積極的にフォローしていただけたのも、魅力的な先生のおかげです。 小学生に負けていたのに奮起しました。

  (以上は「会報」21号2018年発行
        「恩師を訪ねて(特集号)」より転載)

先生の登場で蘇った『二中吹奏楽部』です。先生の音楽(声楽)の情熱でグダグダだった『ペッパー警部』から飛躍的に成長することができました。

40期 大作美由紀さんの思い出
私ども40期生は平成元(1989)年の卒業生です。あれから29年……。 当時、無名であった我が市川二中吹奏楽部は、昭和の最後の夏に千葉県吹奏楽部コンクー ルの予選・本選を勝ち抜いて千葉県代表の4校に選ばれました。惜しくも「ダメ金」で全 国大会には出場できませんでしたが、全国大会常連校である千葉市立土気中学校と我が市 川二中の2校のみが「金賞」という快挙を成し遂げた輝かしい功績は、その後の私の人生で支柱となって行くほど大きな経験となりました。 顧問の太田隆道先生をはじめ部活の仲間たちとの絆、関東大会で金賞を獲得した際の感動、 全国大会を逃した際の悔し涙、コンクールで演奏した課題曲『深層の祭』・自由曲『交響曲 第三番オルガン・終楽章(サンサーンス)』、私たちの奏でるハーモニー、朝練、集団下校、 夏合宿、停部期間中の江戸川河川敷での練習、胃潰瘍で血を吐いた部長職務(笑)そのす べてが最高の思い出であり、すべてが今でも胸を熱くさせ、涙が溢れる最高の宝物となっ ております。すべてに感謝です。   ―中略―
今年、私ども40期生は44歳を迎えます。成人し、就職し・結婚し・親となり…。気づ けば、我が子も当時の私の年齢を追い越して成長し、子育ても終盤に差し掛かり。“あぁ、 またクラリネットを吹きたいな、太田先生の指揮でOBみんなと合奏をしてみたいな~♪   ”と、思う今日この頃です。楽器も新たに揃え、少し「本気モード」です(笑)。
  市川二中 素敵な思い出をありがとう☆

(「坂の上の楓たち」‐同窓会再発足20周年記念誌‐2017年発行より抜粋)

●宮田のぞみ 先生(五代顧問)
1979S54年8月5日
「第一回サマーコンサート」開催
1980S55年 千葉県吹奏楽コンクール第一部 特別優勝
1981S56年 同コンクール 優勝
●太田 隆道 先生(六代顧問)
1987年千葉県吹奏楽コンクール(千葉県代表‐4校‐に選出される)
東関東大会初出場 金賞受賞
●田嶋 淑子 先生(七代顧問)
●鈴木  宏  先生(八代顧問)
1997H9年7月    千葉県吹奏楽コンクール
    金賞受賞
  同年 11月1日 二中同窓会再発足臨時総会開催
1998H10年5月16日 二中同窓会第一回定期総会にて演奏
    (二中体育館 指揮:鈴木宏先生)
1999H11年6月6日  二中同窓会第二回定期総会
二中校歌吹奏楽版の編曲完成・初演
    (二中体育館 指揮:鈴木宏先生)
八木澤教司(42期:作曲家)さんによって編曲され
その年の同窓会第二回総会で初演されました

八木澤教司さんの思い出
今から10年前、私は二中を卒業しました。同窓生の皆様と同様、母校に対する思い出は たくさんありますが。、私にとっては吹奏楽部の思い出が特に印象深く、今の私の原点ともいえる経験をさせていただきました。 当時の吹奏楽部は太田隆道先生のもとで音楽にも精神的にも多くの事を学び練習を重ねていました。  ―中略―
当然いろいろな悩みや壁にぶつかり辛い経験もありましたが、それらを今だに語りあえる親友とも巡り合うことも出来ました。 当時の経験は文面では語りきれないほどたくさんありますが、これらは私の音楽家としての原点であり、今でも大きな励みとなっています。 こんな思いを持ちながら音楽活動を続けていた私は、昨年、同窓会より校歌吹奏楽版の編曲依頼を頂きました。  ―中略―
同窓生の二中に対する想いは年代や環境によって多種多様ですが、校歌だけは一期生から新卒業生まで唯一共通するものだと思ったからです。 私は同窓生の「校歌」という思い出を大切にすることを心がけ、二中に対する各々の想いを集約して五線紙と向かい合いました。 同窓会総会当日、懐かしい体育館で吹奏楽版校歌を初演しました。 演奏は同窓生全員の斉唱と在校生の吹奏楽部、華やかで迫力ある吹奏楽と共に、同窓生の歌声を聞くことができ、 編曲者としては何よりの喜びを味わえました。今後も二中のお役に立てることを心から願っています。  ―後略―

(「会報」3号2000年発行「吹奏楽部の思い出と校歌編曲の試み」より抜粋)

この年の同窓会会場で吹奏楽部による演奏を聴いた
2期 藤井陽一さん(元東大教授)の感想
市川二中ブラバンの皆様、2期の藤井陽一です。
先日の同窓会総会では、素晴らしいブラスの演奏を聴かせて頂き、とても感激しました。 私が二中にいたころは、終戦の直後でしたから、今のような立派な校舎もなくて、廊下はところどころ穴が開いた木造の校舎と、 それから、昔の日本軍の兵舎を利用したので、廊下もない木造の校舎(現・養護学校のところにあった)でした。 で、今の様な、立派な吹奏楽団なんて夢のようですね。 第一、楽器、チューバ、ホルンなんかが高くて、昔の二中ではとても買えなかったでしょうから。 でも、私たちは、音楽は好きで、音楽には初恋をしていましたよ。SPレコードを誰かが借りてきてレコードコンサートなんかをしていたりして。 そう、文学にも初恋をしていました。
昔の二中新聞に、こんな感じの不思議な文章を書いて、みんなに怒られたり。
―中略―
そういうわけで、どうか、皆さんも、恋をなさって下さい。音楽に対する恋もOK、文学だって、英語だって、科学だって、恋をして下さい。 異性への初恋、これは勿論ですね。 そして、どうか、素晴らしい初恋でありますように。

(「会報」3号2000年発行より抜粋)

1999H13年7月校歌吹奏楽版編曲をされた八木澤教司さんが
吹奏楽部の指導に協力参加
同年8月千葉県吹奏楽コンクール金賞受賞(県本選会出場)
同年東関東大会に出場
2000H12年6月11日 二中同窓会第四回定期総会にて演奏
(二中体育館 指揮:鈴木宏先生)
同演奏には1期桑村益夫氏と39期嶋田眞氏が参加
同年千葉県吹奏楽コンクール金賞受賞
2001H13年6月3日二中同窓会第五回定期総会にて演奏
(二中体育館 指揮:鈴木宏先生)
2002H14年6月9日二中同窓会第六回定期総会にて演奏
(二中体育館 指揮:鈴木宏先生)
同年千葉県吹奏楽コンクール銀賞受賞
2003H15年6月8日二中同窓会第七回定期総会にて演奏
(二中体育館 指揮:鈴木宏先生)
同年千葉県大会A部門銀賞受賞

●忠地 美幸 先生(九代?顧問)
2004H16年6月13日 二中同窓会第八回定期総会にて演奏
(二中体育館 指揮:忠地美幸先生)
同年千葉県吹奏楽コンクール 銀賞受賞

●渡辺 マミ 先生
       (十代?顧問)
●忠地 美幸 先生
       (十一代?顧問)

2005H17年6月19日 二中同窓会第九回定期総会にて演奏
(二中体育館 指揮:渡辺マミ・忠地美幸先生)
同演奏には1期桑村益夫氏と45期松浦五月子(さつき)氏が参加
2006H18年6月18日二中同窓会第十回定期総会にて演奏
(二中体育館 指揮:忠地美幸先生)
同年千葉県吹奏楽コンクールA部門 銅賞受賞
2007H19年6月24日二中同窓会第十一回定期総会にて演奏
(二中体育館 指揮:忠地美幸先生)
同年千葉県吹奏楽コンクールA部門銅賞受賞
2008H20年6月15日二中同窓会第十二回定期総会にて演奏
(二中体育館 指揮:忠地美幸先生)
同年千葉県吹奏楽コンクールA部門 銀賞受賞
各楽器別にて金・銀賞多数受賞
2009H21年3月末市川市公民館(現:全日警ホール)にて
校歌演奏ほかを収録
CD版500枚を作成し完全に普及、同窓会財政に寄与

忠地 美幸 先生 CD収録に当たっての寄稿
私は二中に赴任して今年で6年目になりますが、私が最初に二中を訪れたのは、もう30年くらい前のこことになります。 教員になりたての私は、市川市音楽教育研究会会長で二中の村上正治先生に大変お世話になりました。 二中吹奏楽部は村上先生が創設され、その後、斎藤富作先生、鈴木凱夫先生、宮田のぞみ先生、太田隆道先生、田嶋淑子先生、鈴木宏先生などみな尊敬する先輩、同僚の皆さまが歴代の顧問を務められ、その時々の部員たちとのたゆまぬ努力で毎年充実した活動を続け長い伝統を誇っています。 このたびは同窓会の皆様のお陰で、このような録音の場を頂き、大変光栄に思います。 又、これを機会にこの伝統を保ち、部員たちとさらに発展させていこうと考えます。

(2009年完成CDジャケットへの寄稿より転載)
このHPのトップページでBGMに使われ
ている演奏はこのときのものです。

1期 桑村益夫さん 投稿
今から14年前、同窓会が再発足し…活動が軌道に乗るにつけ同期会やクラス会が開催され校歌を歌う機会が増えて来るにつれ、 伴奏を望まれるようになってき… 同窓会理事会にCD制作の具体案を提出するに至りました。 種々議論の末、理事会の承認が得られ「CD制作・普及委員会」が発足し、―中略―
当時の篠崎實同窓会長・三村武教副会長の要請により学校当局及びPTAの格別のご支援が得られ、 平成21年に完成、22年1月には400枚を普及することができました。 かねてより私が念願してきたように制作・普及する過程で同窓生相互の絆が一層深まりつつあるのは、誠に喜ばしい事です。-後略-

(「会報」13号「二中校歌CD『須和田が丘』誕生記」より抜粋)

2009H21年6月14日二中同窓会第十三回定期総会にて演奏
(二中体育館 指揮:忠地美幸先生)
同年千葉県吹奏楽コンクールA部門金賞受賞
各楽器別にて金・銀賞多数受賞
2010H22年6月15日二中同窓会第十四回定期総会にて演奏
(二中体育館 指揮:忠地美幸先生)
同年 千葉県吹奏楽コンクールA部門銀賞受賞
各楽器別にて金・銀・銅賞多数受賞
個人コンクール他多くのコンクールにて多数受賞
2011H23年6月12日二中同窓会第十五回定期総会にて演奏
(二中体育館 指揮:忠地美幸先生)
同年千葉県吹奏楽コンクールA部門銀賞受賞
西部地区大会楽器別コンクールにて
金・銀・銅賞多数受賞
2012H24年6月10日二中同窓会第十六回定期総会にて演奏
(二中体育館 指揮:忠地美幸先生)
同年千葉県吹奏楽コンクールA部門銀賞受賞
西部地区大会楽器別コンクールにて
金・銀・銅賞多数受賞
2013H25年6月 2日二中同窓会第十七回定期総会にて演奏
(二中体育館 指揮:忠地美幸先生)
同年千葉県吹奏楽部(男女)
コンクールA部門
銀賞受賞
2014H26年6月29日二中同窓会定期総会にて演奏
(二中体育館 指揮:忠地美幸先生)
同年千葉県吹奏楽部(男女)
コンクールA部門
金賞受賞
アンサンブルコンテスト金管部門金賞受賞
(県大会出場)
クラリネット部門金賞受賞
(県大会出場)
個人コンクール アルトサックス部門金賞受賞
(県大会出場)
西部地区大会 テナーサックス部門金賞受賞
フルート部門金賞受賞

●山﨑 祐太 先生(十二代?顧問)
2015H27年6月28日 二中同窓会第十八回定期総会にて演奏
   (二中体育館 指揮:山﨑祐太先生)
(同年3月退職された忠地美幸先生も応援出演、
   「手児奈マーチ」世界初演)
同年千葉県吹奏楽部(男女)コンクールA部門銀賞受賞
同マーチングコンテストC部門銀賞受賞
西部地区大会アンサンブルコンテスト
   打楽器三重奏部門銅賞受賞
   木管五重奏部門 銅賞受賞
   木管八重奏部門 銅賞受賞
個人コンクール
   マリンバ部門金・銀賞受賞
(各1名)
   サックス部門 銀賞受賞
(1名)
   フルート部門 優良賞受賞
(1名)

2016H28年3月27日 「太田隆道先生ご定年祝賀会」開催

第40期生(1989年卒業)の野口(大野)薫さんと鹿野和弘さんが発起人になって 「太田隆道先生退職記念祝賀会」が開かれました。 2016年3月28日(日)午後2時から「市川グランドホテル・葵の間」に、元吹奏 楽部員の卒業生40期から42期を中心に33名が集い、太田先生(定年時・下貝 塚中)と思い出話に花が咲きました。 二中校歌の吹奏楽用編曲をされた八木澤教司(さとし)さん(42期)も出席し、 参加者はお互いの健康や現在の仕事、家庭の話題で盛り上がりました。鹿野さん は「中学生当時に吹奏楽に出会い、太田先生の熱のこもったご指導のお陰で、 市内の吹奏楽コンクールにおいて好成績を収め、関東大会に進めたことが良い 思い出になっている。その後の人生に大きな比重を占めていて、非常に感謝して いる」と語られました。

(「会報」19号2016年発行より一部を転載)

40期 鹿野和宏さんから当時の思い出を寄稿していただきました
私は40期生で、当時の吹奏楽部顧問は太田隆道先生でした。
小さい頃からトランペットに憧れていましたが、小学校では勇気がなくてブラス バンド部に入れず、中学生になったら必ず吹奏楽部に入ろうと決めていました。 早速入部したものの、希望楽器は経験者または楽器所有者が優先ということで 親に頼み込んで楽器を買ってもらい、無事トランペットをやることになりました。
(30年以上経った今でもその楽器は使用しています。)

最初の数か月は合奏に入れず、ひたすら先輩に教えてもらった基礎練習をしてい ましたが、そのおかげで基礎が身に付き、段々と上達していくことができました。 当時は練習パターンや先輩からの指導方法なども引き継がれており、初心者にと って良い環境がありました。
自分が大学生の頃に部活を訪れる機会があったのですが、その時も以前と同じ練 習をしていたことに驚きました。
いまだに中学時代の基礎練習が活きていると実感することがあります。

太田先生の指導もかなり熱量があり、自分が3年生の時はコンクールでも関東大 会金賞という成績を収めることができました。
コンクールも思い出深いのですが、自分にとっては吹奏楽や音楽の楽しさ、素 晴らしさを日々体験でき、その楽しさがいまだに音楽活動を続けている原点にな っています。
クラシックのカセットを毎日のように聴いて、クラシック曲を歌いながら帰っ たのも今となっては良い思い出です。
そして現在、私は管楽器に関する仕事に就いています。
趣味では吹奏楽などの音楽活動も細々と続けています。
これも二中で吹奏楽部に入り、そこで経験した音楽や
楽器の楽しさを経験できたからです。

楽器や音楽というものは一朝一夕ではできないものですし、 学生時代に集中して取り組めたことは自分にとって大きな財産となっています。

    
2016H28年6月19日二中同窓会第十九回定期総会にて演奏
   (二中体育館 指揮:山﨑祐太先生)
   (忠地美幸先生友情出演)
同年千葉県吹奏楽部(男女)コンクール A部門銀賞受賞
同マーチングコンテスト C部門銀賞受賞
西部地区大会アンサンブルコンテスト
   クラリネット五重奏部門金賞受賞
   トロンボーン部門金賞受賞
2017H29年6月25日二中同窓会再発足20周年記念
      第二十回定期総会にて演奏
山崎製パンクリエイションセンターホール
指揮:山崎祐太先生
忠地美幸先生友情出演
市川二中吹奏楽部総勢60余名と
同窓生の吹奏楽メンバー多数参加

  同年  千葉県吹奏楽部(男女)コンクール A部門銀賞受賞
   同マーチングコンテスト
      パフォーマンス部門銀賞受賞
   西部地区大会アンサンブルコンテスト
      木管七重奏部門優良賞受賞
   個人コンクール トランペット部門金賞受賞

●滝本 雅文 先生(十三代?顧問)
2018H30年6月16日 二中同窓会第二十一回定期総会にて演奏
   (二中体育館 指揮:滝本雅文先生)
   (忠地美幸先生友情出演)
同年 千葉県吹奏楽部(男女)
マーチングコンテスト・P部門
金賞受賞
西部地区大会アンサンブルコンテスト
   木管三重奏部門
金賞受賞
   木管四重奏部門銀賞受賞
   金管八重奏部門銅賞受賞
2019R1年6月15日二中同窓会第二十二回定期総会にて演奏
   (二中体育館 指揮:滝本雅文先生)
   (忠地美幸先生友情出演)
同年千葉県吹奏楽部(男女)
マーチングコンテスト・P部門
金賞受賞
西部地区大会アンサンブルコンテスト
   金管七重奏部門
優良賞受賞
   クラリネット三重奏部門優良賞受賞
   木管六重奏部門銀賞受賞
   木管四重奏部門銅賞受賞
2020R2年同窓会第二十三回定期総会は
コロナ感染防止の為中止(出演なし)
同年千葉県吹奏楽アンサンブルコンテスト
   木管七重奏部門銀賞受賞
   フルート部門金賞受賞
   サックス部門金賞受賞
   テナーサックス部門銀賞受賞
2021R3年6月19日同窓会第二十四回定期総会は
コロナ感染防止の為縮小(演奏は見合わせ)


先ずはいにしえの頃の思い出話をご紹介しましょう
「須和田が丘に」‐市川市立第二中学校 校歌由緒‐ 草深清先生 寄稿
昭和22年4月、市川市立第二中学校は、同市立真間小学校の一隅を借りて発足した。 5月、同校裏の須和田が丘の当時の高射砲分隊の廃屋に移転。
丘に登る道が無く、生徒たちとスコップ・鎌などで道を作ったことを憶えている。校長高山徳治、教頭能勢一雄以下七名の教員と生徒二百五十余名。校章は真間の片葉楓のデザイン化で生徒公募による。
校歌は同僚の飯盛宏氏と私の出身校千葉師範学校国文科教授、万葉集専攻で歌人・俳人の濱田佐賀衛先生(坡牛)に委嘱、
一日、私は先生のお供をして眞間山弘法寺の石段を登り、山下の亀井院の真間の井戸を訪ね、手児奈堂から真間川沿いの桜土手を徘徊、因みにこの桜並木は明治戦争の戦勝記念に植樹との事。さらに国府台に上り、聰寧寺の庭前遠く鐘ヶ淵下の江戸川を望む散策を基として校歌は創られた。
なお、作曲の平井保善氏は、濱田先生のご指名によったものである。

(「会報13号2010年発行より転載 この寄稿はご本人自筆のものを書き起こしました)

「二中校歌誕生の時代」  1期 宇野沢璋さん寄稿
昭和22年の秋、校歌発表会が真間小学校講堂で、作詞者、作曲者のご臨席のも とに開催された。
作詞者濱田佐賀衛先生は、我々に英語を教えて下さった当時東京大学の学生であ った濱田龍二先生のお父上である。作曲者平井保善先生は、濱田佐賀衛先生とは 同郷の出身の間柄である。濱田先生は校歌作詞の事情について「悲痛の思い作詞 した」と述べられた。先生は何故「悲痛の思い」で作詞されたのであろうか。以 下は私の忖度するところである。敗戦後間もない混乱の時代に、将来を担う子供 たちが教育、指導されることを「願い」「祈り」をこめて作詞されたのではない だろうか。 ―中略―
   二中卒業生は立派な校歌を持ち幸せであり、
             二中校歌は後世に残る名曲であると思う。

(「会報」13号2010年発行より一部転載)

35期 上遠野紀和さんからの寄稿
市川市立第二中学校 35期の上遠野紀和(かどおののりかず)です。
私が吹奏楽部に在籍していたのは、35年以上の前の事です。
顧問の先生は、宮田のぞみ先生でした。
私は、部長を務めさせて頂き、パーカッションを担当しておりました。
部員数 1年~3年 70名ぐらいだったかな?と思います。
当時、毎年、吹奏楽コンクールに参加し、【金賞】を目指して、日々、みんなで、 頑張っておりましたが、残念ながら届きませんでした。
私の3年間は【銀賞】でしたが、良い思い出でした。
当時、市川市立第一中学校が【金賞】を毎年獲っていたのが有名で、私が2年生 の時に、一中の吹奏楽部部長を訪ねていった事もありました。
第一中学校の吹奏楽部員は、ほとんどが、市川市立市川小学校卒業との事で、実 は、市川市立市川小学校には吹奏楽部があり、市川市立第一中学校同様、吹奏楽 コンクールでは、毎年【金賞】を獲っていたそうです。
また、逆に、市川市立第四中学校の吹奏楽部の数名が、二中へ訪問に来られ、一 緒に練習した覚えもあります。
3年生が引退する夏の終わりには、体育館で、盛大に【サマーコンサート】を開 催しておりました。
サマーコンサートを行う会場作りが、とにかく大変だったな?と思い出します。 2時間程のコンサートが終わると、その後、沢山のOB、OGが加わって、ナツメ ロ演奏を時間が許す限り、行ったなぁと思い出します。
年間の吹奏楽部の活動としては、【入学式・卒業式の入退場行進の演奏、体育祭 での演奏、謝恩会での演奏、吹奏楽コンクール参加、市川フェスティバル参加他】 が活動内容でした。
私自身、吹奏楽部の部長だったという事で、全校集会で、校歌合唱をする際、何 故か、毎回、【吹奏楽部部長、上遠野、上段へ】と呼ばれ、指揮を振ることが多 く、当時は、なんで僕?、音楽の先生でも良いじゃん?という気持ちもありまし たが、今思えば、懐かしい思い出です。
私は、その後、当時、吹奏楽で有名な【関東第一高等学校】に進みましたが、実 際は吹奏楽部には入部せず、設立したばかりの【柏市民吹奏楽団】へ入団致しま した。
市川市立第二中学校吹奏楽部の卒業生の皆さん、中学時代のたくさんの思い出が あると思います。

あの時こうだったとか・・・・・・楽しかった思い出、悔しかった思い出、皆さ んも投稿して頂けたら幸いです。

42期 八木澤教司さんより、当ホームページ開設に当たり寄稿を頂きました
【市川ニ中の吹奏楽部から始まった音楽人生】
コロナ禍で多くの制限が続き、人と人との交流が難しくなった今、このような 「吹奏楽部交流サイト」がオープンしたことを喜ばしく思います。

もし、私のことをご存知でいらっしゃるとすれば、東京2020パラリンピック 開会式の式典音楽、天皇陛下御即位奉祝記念式典・国民祭典での天皇皇后両陛 下「お出迎えのファンファーレ」、紅白歌合戦で歌われた東日本大震災復興支 援曲「あすという日が」の作曲者としてではないでしょうか。
これまで音楽家として日本を拠点にヨーロッパ、アメリカ、アジア諸国を飛び 回る生活をしていましたが、その原点はまさに市川ニ中の吹奏楽部にあります。

1988年、入学と同時に何気なく入部した吹奏楽部。楽譜すら読めなかった私に 先輩方は嫌な顔一つせず、丁寧に楽器の吹き方までアドバイスしてくれました。 また、音楽が大好きになるきっかけとなった多くの名曲を紹介してもらいまし た。当時の顧問であった太田隆道先生からの厳しいご指導は、音楽家として人 生の大きな柱となっています。楽しいことも辛いことも「仲間の大切さ」を学 んだニ中での経験は、私の財産であり誇りです。

2020年より長年住んでいた市川市を離れ、現在は兵庫県西宮市に住んでいます (実家は市川市のままです)。作曲家としての活動と共に、神戸女学院大学音楽学部で吹奏楽と音楽理論の指導をしています。かつての私が音楽の素晴らし さを感じたように、若い世代に様々な経験を伝えていきたいという想いで向き 合っています。

近い将来、ニ中吹奏楽部卒業生が笑顔で集える日が訪れますように。そして、 音楽がたくさんの人を支え、励ましてくれることを願っています。
作曲家 八木澤教司

皆さんもあの頃の思い出を、是非寄稿して下さい。

「吹奏楽部のみなさん」に寄せて
14期 綱取博美(印出)さん
 吹奏楽部の創部時期についてですが、同窓会会報の制作に関わって来たので色々な情報があり本当は如何だったか疑問でした。
 私は1960年に入学しました。同期生で吹奏楽部に所属した風見義夫さんと話をしたところ、「川和田千鶴子(現:高橋)先生が創部をした」という事でした。それですぐに、川和田先生に電話しましたところ、「1960年に市川二中に着任しまして私が吹奏楽部を立ち上げました、当時活動した八木さんに聞けば当時の事がわかると思いますよ」との事で、早速13期の八木良弘さんに連絡しましたところ詳しい事が判りました。
 もう60年以上も前の事なので、記憶も薄れていますが八木さんの思い出では、「1960年4月に川和田先生が赴任されて二学期の後半に楽器が9個購入され、正式に吹奏楽部として活動が始まった」との事。八木さんの弟で16期の健二さんにもご連絡して頂き正式な部活動であったことがわかりました。
 同期生で記憶にあるのは、風見義夫さん、百瀬美智子(唐笠)さん、T.T.さん。
 私はコルネットを受け持ちました。校歌以外に何を演奏したのか、コンクールに出たとかの記憶は残念ながら有りません。
 高校で風見さんと同窓になり二中同期の男性2名が加わって吹奏楽部に入り今でも交流しています。高校では大学も有りましたので、大学の文化祭の招待演奏で東京の九段会館で「有馬徹とノーチェクバーナ」というビッグバンドと共演させて頂いた思い出が有ります。
 二中吹奏楽部での絆が有ってこそ今でも繋がりが有るのだと思います。
 1975年 村上先生がご活躍されたそうですが それ以前にも吹奏楽部が「存在」していた事、廃部になってまた甦りを繰り返していたのではないかと推察します。
 今はもう楽器を演奏することはとても無理ですが、後輩の皆様と吹奏楽を通じて交流できれば素晴らしい事と思います。

「吹奏楽部のみなさん」のページへの感想など
18期 田中新一さん
 ホームページを見ました。奇麗に出来ていますね。「吹奏楽部の交流サイト」も歴史の分かる楽しいサイトになっていると思います。
 ただ、最初の出だしの「二中吹奏楽部は1975年に誕生しました。 最初の顧問の先生は村上正治先生で部員は10人ほどでした。初期の頃は部員はいても楽器が不足していました。」の部分は違っていると思います。
 なぜなら、私は1964年(昭和39年)のオリンピックの年に2中に入学しました。そして吹奏楽部に入ったのですが、その時にはすでにすべての楽器が整った30人くらいのクラブでした。
 部長は当時3年生の八木書店の八木さん(トランペット)で副部長は女性の小塚さん(アルトサクソホーン)でした。村上先生は中山裕一郎さんが書いているように私が入学する1年前に1中から2中に赴任となり私達の指導をして頂きましたが、たまにでした。ほとんどは数学の鈴木先生と音楽の川和田先生が指導してくれました。私の入学前の何年ごろに吹奏楽部が出来たのかは分かりません。楽器も奇麗でしたよ。
 印出さんも確か吹奏楽部だと言っていたと思います。
 桑村さんは村上先生から誘われて市川交響楽団に入り、真間小を借りて練習していたと言っていたように思います。定かではありません。聞いて見て下さい。私達のあと一度衰退したのでしょうね。
 私が2中に入学する1年前の市民会館で秋に行われた市川市小中学校音楽コンクールに私も市内のある小学校を出たのですが、その時2中吹奏楽部は行進曲「美中の美」を演奏したと思います。とても上手でした。と言うことでかなり前から吹奏楽部はあったと思います。




今度は現役の部員の皆さん方の感想です
現在の部員の皆さん方からの感想などを募ります。


そして歴代顧問の先生方にはご苦労話などをご披露いただきます



さぁ、皆さん方からも、是非思い出のお話などをお寄せください
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